願海寺新聞 第21号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第21号

発行:2015年7月

こんにちは!今年1月に発行致しました『なるほど!ザ・正信偈』の初版200部が皆様の元へ行き渡り在庫がなくなりましたのでこの7月より第2版を発行致しました!
一部の方にはまだお渡しできておらず申し訳ありません。また、初版12ページの上から2段目の左の「必死」は「必至」の間違いです。ここにお詫びし訂正させて頂きます。
皆様と共にお念仏を喜ぶ道を歩んでいけたら嬉しいです。弦

願海寺あれこれ

先月に引き続き栃津の願海寺に残る燈籠についてのお話です。
先月ご紹介した一対(A)には願主や石工、年代が記されておりましたが、もう一対(に見える2基・B)は少し小振りな燈籠になっており、片方には「二十三世願海寺坊守建え」と、もう片方には「新井山二十四世巧意建え」と共に願主のみが刻まれています。
これは「23代目(巧誓)の妻がこれを建てました」と「24代目の巧意がこれを建てました」となります。このお2人は17701820年頃に生きた方と思われます(巧意は1818年没)。
先月にご紹介した一対の燈籠は1805年に造られたものですから、これら4基の燈籠はすべてほぼ同じ時代に造られたものであることが分かります。
この時代、願海寺は富山市五番町にありました。そんな中、遠く離れた栃津の地にこのように信仰が形となって残されたのは、江戸後期は社会が安定し潤っていたからこそなのでしょう。なお、先月にご紹介致しました灯篭一対に関しましては富山市教育委員会埋蔵文化財センター様による調査レポートを参考にさせて頂きました。ここに深く御礼申しあげます。

Q『仏教って亡くなった方のためのものなの?』

仏教のみ教え、すなわちお経や『正信偈』などのお聖教(しょうぎょう)、さらにはお葬式をはじめとする仏事は誰のためにあるのでしょうか?
きっと「亡くなられた方を供養するため」にあると思われている方が多いのではないでしょうか?もちろん、亡くなられた方を大切に思う気持ちは大事に持ち続けていくべきですが、仏様の救いはこの「私(すなわちこれをお読みのあなた)」のためにあるのです。
なぜなら、亡くなられた方は阿弥陀様に救って頂きすぐにお浄土で仏と成られています。
仏に成られたということは、一切の苦しみから解き放たれ、今度は阿弥陀様と同様のはたらきとして、この世で変わらず苦しみ続けている私を救おうと光を差し向けて下さっているからです阿弥陀様に救われお浄土で仏と成らせて頂くことを「往相回向(おうそうえこう)」、また救いの世界(この世)に還ってきて私たちを導くことを「還相回向(げんそうえこう)」といい、これが阿弥陀様より頂ける二種の利益(りやく)です。たとえば、お仏壇のお荘厳(しょうごん)を見てみて下さい。このお荘厳は阿弥陀様のおられる極楽浄土を表していますが、すべてこちら(私たちのほう)を向いているんですね。
そこにお供えしているお花も仏様のためではなく、花は咲き、そして枯れていくという諸行無常の理(ことわり)を私たちに見させ感じさせて下さっているのですし、お仏飯も仏様が召し上がるわけではなく、食事というありがたいおめぐみに感謝させて頂くためなのです。
(なお、浄土真宗ではお仏壇にお水、位牌はお供え致しません。詳しくはまたの機会に...)
こうやってこの新聞を読んで仏様のみ教えに触れることも、読んでいるのは「自分」ですけども、そこに至るご縁は仏様よりもたらされたものなのです。これが阿弥陀様からの「オマエこそ救う」というおはたらき、すなわち「他力本願(たりきほんがん)」であります!仏様のお慈悲のお心に感謝してお念仏と共に歩ませて頂きましょう。 なもなもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞