願海寺新聞 第55号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第55号

発行:2018年5月

こんにちは!近頃「自由」ということについてよく考えさせられます。私たちには日本国憲法においても基本的人権に基づき様々な「自由」が保障されているわけですが、もしかすると私たち現代人は「自由」を「自分勝手」とはき違えてしまっている面があるのではないかと思うのです。「私」という「個」が確立されればされるほど、その視界が狭くなれば、自分が生きているこの時間・人生だけが「全て」となり、自分主義に陥ります。そうなるとこの「命」も自分の所有物と考えたり、自分の理解できることだけを「正しさ」としたり、これまでの歴史で培われ受け継がれてきた伝統すらも「無意味」と切り捨てていく、そんな傾向がどんどん強まっていってしまうのではないでしょうか。
仏教書ではありませんが、江戸時代の教育書『和俗童子訓』に「ことに高家の子は、物事豊かに自由なるゆえに、好むほうに心早くうつりやすくして、おぼれやすし」とあります。物質的にも経済的にも恵まれたこの現代にあって、自分主義な生き方に陥ることは、長い目で見たときに、自分がいなくなった後に周りの人や後に続く人たちを迷わせてしまう危うさ恐ろしさをはらんでいると思うのです。
「墓じまい」を流行にしようとするメディア、それを商売にしようとする企業、そしてそんな風潮に踊らされている世間を見ていると「自由」が暴走してしまっている怖さを感じてしまうのは私だけでしょうか?!南無阿弥陀仏 合掌 弦

如来の智慧の大海は とても深く広く果てしない  如来智慧海深広無涯底

Q『煩悩はどう向き合えばいいの?』

2月号から4月号で、煩悩(ぼんのう)の根幹となる三毒(さんどく)(貪欲 どんよく・瞋恚 しんに・愚痴 ぐち)について考えさせて頂きました。煩悩は人間誰もが抱えているものであり、また全ての「苦」の種となっているものです。
しかし、「欲望・欲求があるからこそ人類は文明を築けたのだから煩悩は悪いことではない」なんて声もたまに聞こえます。確かに科学文明によって私たちは豊かな生活を実現しています。ですが、その発展の裏側でいったいどれだけの犠牲を生んでいるのかという点に目を向けることが、私たちが貪りの鬼ではなく真に人間として生きるために必要なのです。私たちは、その生活を便利にするために地球環境をますます破壊し続け、自分の民族を発展させるために他者を平気で虐げています。その苦しみは連鎖し、必ずまた自分を苦しめることになるのにも関わらず、それに気付こうとも出来ません。煩悩によるこの自己中心的な生き方で、苦しみの海におぼれているのが私たちの有り様であることをまずはきちんと知らねばなりません。
では、私たちは煩悩という巨大な問題にどのように向き合っていけば良いのでしょうか?!
まず、1つめに、自分の望みが自分を満たすだけのものなのか、周りの人にも安らぎをもたらすものかどうかを見つめてみましょう。さらには、私が喜ぶ一方で悲しみの涙を流す人はいないかを考えてみます。つまり「自分の都合」を一旦脇に置いて物事の全体を眺めてみるのです。続いて2つめに、手に入れたものはみんなで分かち合うことを大切にしましょう。そして、その分かち合いを積極的に喜んでいくのです。この2つが阿弥陀如来(あみだにょらい)の「智慧(ちえ)」と「慈悲(じひ)」であり、「智慧」とはみな平等ということ、「慈悲」とはみなで分かち合うということなのです。
その「智慧」と「慈悲」の生き方、「みな平等、みなで分かち合う」を目指し実践することで、煩悩という毒も好まない人間へと少しずつ育まれていくわけです。そして、あなたのその生き方が誰かに伝わり、また広がっていく。そうすれば愚かな貪りも争いも減り、誰もが安心して穏やかに暮らすことのできる世の中が築かれていくことでしょう。そのことを願い、私たちに向けはたらきかけて下さっている、その阿弥陀如来からの御心が「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」であります。    なもあみだぶつ♪

行事案内

永代・祠堂経 6/3(日)10:00~・13:00~

楽しい仏教入門 6/22(金)18:30~20:00
        6/23(土)13:30~15:00

お経を称える会 7/4(水)18:30~20:00
        7/5(木)13:30~15:00

栃津おつとめ   7/11(水)15:00~

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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