願海寺新聞 第25号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第25号

発行:2015年11月

こんにちは!ついこの間まで「暑い」と言っていたのがウソのように寒さを感じる季節となりました。空気も乾燥しており風邪をひやすい時期です。どうぞお身体御自愛くださいませ。
さて、いよいよ始まりました『楽しい仏教入門』!第2回は12/20(日)13:30~15:00で開催致します。堅苦しい勉強会ではございませんので、皆様お気軽に遊びにいらして下さいね♪心よりお待ちしております!
そして来年1/10(日)10:30~11:00には『初参式(しょさんしき)』を行います(詳細は別紙にてご案内を致します)。皆様に仏様のみ教えをしっかりお取り次ぎできるよう色々と考え行動していきたい所存でございます!弦

願海寺あれこれ

お話が江戸時代の中で前後してしまいますが、戦国時代の混乱によって越中各地を転々としていた願海寺は、平和な江戸時代の1662年に富山市五番町(現在の中央小学校の位置で光厳寺さまの向かい)に小出から移ってきたと伝わっており、それを示す富山藩前田家からの書状も現存しております。城下町の整備で有力寺院が集められ寺内町が形成されたのです。
しかし、高岡伏木・勝興寺さまにて現存している願海寺梵鐘は1640年に建造されたものですが、ここに富山中心部を示す「越中国新川郡 太田保内 富山」と刻まれていることからもしかすると記録の残る1662年よりも前から現在の富山市中心部へ移ってきていた可能性もあります。
そして、この五番町には1871年(明治4年)までありましたので、200年以上も同じ場所にあったのです。願海寺の800年の歴史の中でそれほど長い間同じ場所にあったという例は他になく、江戸時代の平和さをうかがいしれます。なお、願海寺が現在の清水町に移ってきてからは今で141年になるようです。
さて、ではなぜその五番町から離れることになったのでしょうか?
来月号からは明治時代に起きた大変な事件についてお話をさせて頂きます。

Q『阿弥陀さまってどんな仏さま?』

仏様はインドのガンジズ川の砂の数(数えきれない)ほどおられるとお経にも書かれていますが、そんな無数におられる仏様の中で浄土真宗の御本尊(ごほんぞん)となっておられるのが、はるか西のかなた極楽浄土(ごくらくじょうど)におられる阿弥陀仏でございます。
阿弥陀さまは“慈悲の仏さま”と呼ばれます。母が幼いわが子を抱く気持ちには見返りを求めようという思いは一切無いように、阿弥陀さまはただ自らの愚(おろ)かさに気付かず傲慢(ごうまん)に生きる私たちの有様を悲しみ、哀れみ、救おうと光を差し向けてくださっているのです。
この光は目には見えませんから、受け取らせて頂く私たちの“こころ”の問題となります。
阿弥陀さまの光はすでに私を包んでくれています。「南無阿弥陀仏なんて自分には必要ないよ」と思ってしまうアナタのためにこそ阿弥陀さまは光を差し向けてくださっているんですよ!人間の心はどうしても「自分中心」になってしまいがちです。さらに言えば「自分だけよければ良い」と心の底では無意識に思ってしまっているのが人間の実情でありましょう。
「私」は、たくさんの御先祖さまからの命の流れというご縁があったからこそ産まれられ、多くの命のお恵みを頂いてこの命を保つことができています。それなのに感謝の心も持てず、逆に愚痴(ぐち)ばかり言って生きています。さらには周りには嘘ばかりついて生きています。
このような私は間違いなく地獄に落ちる身なのです。
阿弥陀さまが「必ず救う」と誓いを成就(じょうじゅ)されてから十劫という気の遠くなるほどの永い時間が経っているのに、その阿弥陀さまを疑ってきたから私は仏には成れず、前世の記憶は無いにしろ苦しみの世界を生まれ変わり死に変わり、ずっとさまよい続けてきているのです(第2号参照)。ですから、疑いを捨て、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏をさせて頂く、それこそが大事なのです。「念仏は自我崩壊の音である」と真宗大谷派の僧侶・金子大栄先生はおっしゃいました。阿弥陀さまからの光に照らされることによって「愚かな自分」の姿に気付かせて頂けるのですね。
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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