願海寺新聞 第81号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第81号

発行:2020年7月

こんにちは!私・巧弦が浄土真宗本願寺派の僧侶として得度させて頂いたのは2013年5月でしたので、気付けばはや7年以上が経ちました。入寺致しましたときは願海寺ご門徒の皆様が温く迎えて下さり、たくさんのお育て、お支えを賜っておりますおかげで、続けることができています。そして、この7年の間には、ご門徒さまとのお別れもたくさんありました。願海寺の近所にお住まいのご門徒様でも、ご夫婦でおられましたのに、もうお2人ともおられなくなったお宅もあり、思い出すとなんとも寂しい気持ちになります。
でも、そんな私のために、死で終わりではなく浄土に往き生まれて仏に成らせて頂くという南無阿弥陀仏のみ教えがあって下さったのだなと、とてもありがたく噛み締めています。亡き方との別れを通して「どうか必ずお浄土に生まれてきてくれよ」と私のことを願い、そしてはたらきかけて下さっている阿弥陀如来の大慈悲の御心に遇わせて頂くとき、別れは悲しく寂しいままに、同時にまた「浄土にて必ず再び会う」という確かな喜びへとも転じられているのです。
この、生と死とを超えていく仏道(生死出づべき道)を喜び、尊び、そしてまた、しっかり伝道していきたいと改めて思っております。
合掌 南無阿弥陀仏
(弦)

この法を聞きて信心を歓喜して、疑なき者はすみやかに無上道を成らん。
もろもろの如来と等し。
『華厳経』

宗教ってなぁに?~定義編~

「宗教」と一言で申しましても、その定義は実に難しいものです。
まずそもそも日本語の「宗教」という言葉自体が古いものではなく、明治時代のはじめ頃に「Religion(レリジョン)」の訳語として作られた新しい言葉なのだそうです(Religionの語源ははっきり分からないようです)。
それはつまり、きっと日本人には「宗教」という概念を立てる必要もないほど宗教性が自然に備わっていたのでありましょう。宗教心や宗教的行為は、人生や生活を構成する中心に在るものだったわけです。それが、訳語として「宗教」という言葉ができ、一つの概念として打ち立てられたことによって、私たちの存在とは別のものとして切り離されていったのかもしれません。なるほど、まさにこの明治からの近代化というところに、私たちが「宗教」を分からなくなってしまったポイントがありそうです。

さて、現代の私たちが「宗教」と聞いて連想するのは、たとえば「浄土真宗」や「キリスト教」といった教団というものだと思いますが、それらは制度宗教といい、宗教学では「狭義の宗教」というそうです。「私は無宗教」と宣言する方のほとんどは、この意味においてでしょう。
しかしながら、「宗教」はもっと大きな意味を含み持ちます。私たちが、生まれてきたけれども必ず死んでいかねばならないという根源的な矛盾を抱えることによる苦悩という問題の解決や、この人生だけが全てではないという命の流れ(前世や来世)の考え方、死者を弔い祀る行為など、これらを「広義の宗教」といい、その宗教性は人間が死を見つけたときから始まっているといわれます。たとえば、15万年ほど昔のネアンデルタール人には死者を埋葬したのであろう宗教的行為が見られるそうですから、まさに人類の歴史は宗教と共にあるといえます。。

いやはや、「宗教」とは実にスケールの大きな世界です!
「宗教」を考え学ぼうとすると、そのスケールの大きさの前に、ちっぽけな一人の人間の思考で理解しようとしていることが馬鹿なことなのだなという気になります・・・(苦笑)。
でも、その「自分という存在の小ささに気付かされる」ということも、宗教が持つ大切な機能なんですよね!頑張って共に学んでいきましょう!!
なもあみだぶつ♪

クイズ

阿弥陀如来の「阿弥陀」とは●●と■■という意味をもちます。さて、それは次のうちのどれでしょう?!

1.努力と根性
2.智慧と慈悲
3.愛と勇気

☆先月の答えは「1.元祖」でした!

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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