願海寺新聞 第87号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第87号

発行:2021年1月

こんにちは!新しい一年が始まりました。今年も何卒宜しくお願い致します!混迷の大変な時代でありますが、阿弥陀如来のお慈悲を依りどころとして精一杯に生かせて頂きたいですね♪
個人的に今年の目標としましては、本願寺派の「布教使」という資格の試験に2018年より挑んでおりますが、残りの最終試験に合格を目指します。
さて、ところで、冬になってからはほぼ毎日のように悲しい火事のニュースを目にします。私自身、火事で父親を亡くしており、その悲しさ辛さは16年以上が経った今でも深い傷として心に残っています。
ですから、どうか同じような悲しさ辛さに苦しむ人が無いようになってほしいのです。そのためにも一人一人が火の始末や、使っていないコンセントは抜き、コンセントのホコリやたこ足配線に気を付け、家族の間でも注意し合っていくなどの心がけが欠かせません。特にこの冬は寒いですのでストーブにも要注意です。どうか皆様が健やかにお過ごし下さいますよう、心より深く念じおります。

合掌 南無阿弥陀仏
(巧弦)

仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。
『仏説観無量寿経』

宗教ってなあに?~日本編⑤~

平安末期から鎌倉初期(12世紀末~13世紀)に、鎌倉仏教ムーブメントが起きました。
仏教という宗教には、絶対的創造主といった存在は無く、世の中の全ては常に「縁起」という「相互の関係性」の上に成り立っていると見ます。ということは「これでOK」という固定された姿もないとなりますし、「答え」という絶対的な正しさも持ちません。つまり、「仏教」自体が常に自らの存在を問われ続けることになりますから、構築しては解体され、また再構築されていくという、凄まじい構造を持った宗教なのであります。
そのような「仏教」であるがゆえに、平安時代の日本仏教界が国家や貴族のためだけの形骸化した状態であったことと、民衆は飢えや疫病など世の乱れに苦しまされる中で「救い」を求めていたことが背景となって、仏教の「救い」という側面が強調された鎌倉仏教ムーブメントが勃興していったわけです。

宗教の持つ「救い」について、よく「昔の人は科学文明が発展していなかったから、神仏なんて実在しないものを信じられたのだ」と考える方がおられますが、そうだったのでしょうか?
科学文明が発達した現代において明らかになったことは、この宇宙には「目には見えないけれども確かに在る」が満ちているということです。「光」だって、私たちの目に映る光(可視光)は宇宙に存在する様々な光(電磁波)のごくほんの一部でしかありません。それらは、目には見えないけれども確かに在って、私たちを育んでくれているわけです。そう思いますと、科学的知見を持たなかった時代を生きた先人たちのほうが目に見えぬ神仏なども信じがたかったはずであっただろうとイメージするのです。
目には見えないけれども確かに在って私たちを恵み育んでくれているのがこの宇宙の真理(法則)です。それは「私が生きている」と思っていたけれど、実は様々なおはたらきに包まれ「生かされている命」であったということです。その気付きによって生き方が転じられ、人生を生き抜く力が与えられる、これが宗教的「救い」なのであります。

なもあみだぶつ♪

くいず

鎌倉仏教の祖師が以下の僧侶に一名おられます。
さて、どなたでしょうか?!

①蓮如上人
②願海寺巧弦
③法然聖人
④一休禅師
⑤空海

☆先月の答えは「3.今日の都の鬼門の方角だから」でした!

毎朝7時より願海寺 本堂にて朝のお勤めを行っています。
朝の「お寺時間」は心も身体もスッキリしますよ♪
どなたさまもお気軽にどうぞ~!!

≪1月16~22日はお休みとなりますm(_ _)m≫

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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