願海寺新聞 第39号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞

願海寺新聞 第39号

発行:2017年1月

南天阿弥陀仏
一切の生きとし生けるものに対して慈しみのこころを起すべし

こんにちは!新しい年が始まりましたね!
本年もどうぞ宜しくお願い致します!!
さて、お正月を迎えますと「おめでとうございます」と申しますが、でも考えてみますと何がおめでたいのでしょうか?年が変わることがそんなにめでたいですか?といきなりひねくれたことをもうしてみました(笑)。
仏教に“日々是好日(にちにちこれこうじつ)”という言葉があります。「良い日」「悪い日」を決めているのは全て人間、全て私の都合です。どんな天気であっても今日という日は今日しかない、今日は人生で一番若い自分だ、新しい自分のスタートだと受け止め感謝させて頂くことができれば、人生が潤っていくのではないでしょうか!?でも、なかなか上手くはできない、それが人間です。だからこそ、新年というこの機会に仏様と向き合い、お念仏と共に自分の命・人生についてじっくり考えさせて頂くのはいかがでしょう?
お寺ではいつでもあなたをお待ちしていますよ♪
なまんだぶつ なまんだぶつ 合掌 弦

願海寺あれこれ

昭和20年(1945年)8月1日深夜に富山市中心部を焼き尽くした富山大空襲によって願海寺の旧本堂は全焼してしまいます。現在ではこの旧本堂の様子を知る方もほとんどおられず、「行ったことがある」と旧境内地の様子を詳しく話せる方には私は数名しかお会いしたことがありません。
戦前の外観の様子の分かる資料としましては、門の外から撮られた白黒写真が1枚のみ現存しているのと、前住職(31代・巧演)の妹さま(先日、ご往生なさいました。合掌)がその写真をもとにして描かれた絵(カラー)しかありません。もし写真をお持ちの方が折られましたら情報提供をどうか宜しくお願い致します。
こうやって歴史を訪ねてみますと、歴史というものは本当に簡単に失われ分からなくなってしまうことを痛感します。だからこそ、しっかり資料を残す努力をして未来へと受け継いでいくことが重要であると思い知らされます。

Q『ご縁ってなぁに?』

「縁(えん)」「縁起(えんぎ)」「因縁(いんねん)」「因果(いんが)」などは私たちが日常よく使っている言葉ですが、全て仏教用語です。「縁」とは、この世の全ての物事は互いに依存し合った関係によって成立しており、単独で存在しているものは無いということです。つまり、私たちが気付かないだけで全ては繋がりあっているというのが「縁」であり、あるときには有ったり、またあるときには無かったりするような次元ではありません。
たとえば、服はもともとは糸です。糸が集まり布となり服となっているわけですが、右袖の糸と左袖の糸とは直接は触れ合ってはいなくとも、でも、それぞれが関係しあって服を構成しており、互いに欠けては「服」という事象を成立さし得ないわけです。これが「ご縁」です。
私たちはTVニュースで海外で戦争が起き多数の死者が出ていると聞くと「かわいそうに」とは思っても、心の底では同時に「私とは関係のない国のことでよかった」などと安堵の思いを抱いてしまっているわけです。ですが、やはりご縁で繋がっているのですから、関係ないと思っていた戦火は、環境、経済、人種、貧困など様々な問題となり私へと至り届くのです。
このように、この世の中で「自分には無関係」ということは絶対に無いのです。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「一切の衆生(しゅじょう)はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり」とおっしゃいました。(『歎異抄(たんにしょう)』)。
これは「この世の中の全ての人は、前世があり、と数え切れないほどの生まれ変わり死に変わりを繰り返してきたそのどこかで私のお父さんお母さんだったり兄弟だったりしたんだよ」という意味です。世の中の全ての人が自分と関係のある大切な存在なのだとお考えだったのですね。じゃあ、私たちは隣の国の貧しい子に対して我が子と同じ愛情を注ぐことができるのか?それは無理でしょう。そう、それが人間の悲しい有り様なのです。でも無理だからと切り捨てるのではなく、「自分と関係のある人が苦しんでいるんだ」と慈(いつく)しみ思いやる心を大切にせねばなりません。そして苦しみだけではありません。友人が喜んでいれば自分も同じように喜ぶ。これだって難しいことです。そうです。ご縁に気付かせて頂くということは、すなわち自分自身がいつも小さな枠組みの中にとらわれてしまっているんだなと気付かせて頂けるということでもあるのです!
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞