願海寺新聞 第44号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第44号

発行:2017年6月

こんにちは!
2017年も上半期最後の月となりました。この6月が終わると今年ももう半分!本当に早いものです…。このまま一生を空しく過ごしてしまわぬよう、今日、今この一瞬をせねばと思わされます。7月になりますと、今から806年前の1211年に願海寺が始まった地である立山町栃津に現存する御堂(この御堂は江戸時代のもの)にての年に一度のお参りがございます。
その境内地の周りには木々が生い茂り、電気は御堂に小さな豆電球が一つだけ、水道も通っておらず、何百年も前からほとんど変わらぬ姿で受け継がれてきたであろう場所まで、まるでタイムスリップしたかのような感覚も起きています。そこで称えさせて頂くお念仏からは、遠い遠い数多くの御先人方からの願いがまさに今この私に届いているのだなと強裂に感じさせられます。本当に尊くあがたいことであります!
今年は7月13日(木)15時頃からの予定です。どなた様もご参加頂けますので、是非ご一緒にいかがでしょうか!?どうぞお気軽にお電話などにてお問合わせ・お申込み下さいませ!場所が分からない、移動手段が無いという方も、ご一緒に移動できればと思っておりますので、ご安心ください。
現代文明の雑音の無い自然の中に身を置くのはとても良い心のリフレッシュにもなるはずです!皆様のご参加をお待ちしております♪ なもあみだぶつ なもあみだぶつ 合掌 弦

如来のさとりは はかりしれない尊い智慧をさなえ何ものにもさまたげられない

Q『四苦八苦ってなあに?⑤』

2月号より四苦八苦(しくはっく)について考えさせて頂きましたが、最後は「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」です。これは、「人間の心と身体から生じる煩悩(ぼんのう)が盛んに起きる苦しみ」という意味で、要は、「生・老・病・死」の四苦、そして「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとっく)」は全てこの「五蘊盛苦」に収まるということであります。つまり、「私」という存在があるから苦しみが生じるのであり、生きていることは苦しいことなのだ、となるでしょう。でも、じゃあ「死ねば楽ですよ」なんて仏教は説くのかといえば、全くそうではありません。
そもそも「私」という存在は、これまでの果てしない宇宙、地球、人類の歴史のつながりによる結果として今この姿を形成しているわけです。そして、この姿はまたそのつながりによっていずれ解体されていくわけです。ですが、「つながり」はまたずっと続いていくわけです。全ての存在が連綿と受け継がれたつながりの中にいる。ということは全ての存在は混ざり合った関係でもあるわけです。仏教ではこのように「自分」と「他人」とを切り離した考え方を超え、みながつながっていると見ます(「自他一如(じたいちにょ)」といいます)。なのにこの「私」は自分という存在にとらわれ、自分自身に執着しています。そしてその執着が強くなればなるほど、そこから生じる四苦八苦の苦しみも強くなっていきます。神仏に向かって欲望を充足させるための願い事をしたり、占いや祈祷、お払いといった迷信に振り回されたりしているのも全て自我から生じた迷いの苦しみです。
苦しみに対しては、「この世は思い通りにならない」ことと、「私という存在は自分中心の貪りの心に支配されている」という厳しい現実とまず向き合うことが大切です。
厳しい現実、自己の欲深さ・罪深さを直視するからこそ、またその現実に立ち向かう積極的な生き方も育まれていくわけであります。その自己と向き合うための心の鏡が「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のお念仏でございます。このお念仏をありがたく頂き、お念仏と共に苦悩の人生を歩み抜く、そこにこそ浄土真宗の救いが成立するのです!
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞