願海寺新聞 第53号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第53号

発行:2018年3月

こんにちは!去る2月11日に願海寺 第31代(前住職)願生院 釋巧演が満93歳で往生致しました。皆様のおかげをもちまして通夜・葬儀ともにとどこおりなく終えることができ、ここに厚く御礼申しあげます。前住職は私が願海寺へ来たときはもう法務には出ておりませんでしたので、前住職の人となりは私より門徒様の皆様のほうがよく知って折られると思いますが、よく伺うのは、とにかくお念仏を大切にされる念仏者だったということです。前住職の部屋には「この世のできごとは何事も何事もお念仏の助縁と心うべし」と前住職自身の書が飾られておりました。この御言葉は、真宗僧侶で龍谷大学の元学長であった故・信楽峻磨先生(願海寺にも1987年にいらして下さったことがあります)のご著書にあり、その元となるのは法然聖人(親鸞聖人のお師匠さま)の「念仏往生を遂げんがためには、何事もみな念仏の助業なり」と思われます。その御言葉を大切にしていた前住職が、念仏を称えめでたく往生していったことは、私たちにとって、また「お念仏の助縁」であります。後に続く私たちがますますお念仏を大切にしてこの人生を歩み抜くことを前住職も仏と成り願いを届け続けて下さることでしょう。
なまんだぶつ なまんだぶつ 合掌 弦

仏の願いの力によって南無阿弥陀仏を聞いて往生を願うものは みなもれず浄土へと到りおのずから必ず仏と成るべき身に定められる

Q『煩悩ってなぁに?②』

今月は煩悩(ぼんのう)の根幹(こんかん)をなす「三毒(さんどく)(貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち))」から「瞋恚」についてです。「瞋恚」とは「怒り」でございます。怒りといっても「キレる」というほどのものはそうそう無いかもしれませんが、少しイラッと腹を立ててしまうことは日々数え切れないほどありますよね。たとえば、車に乗っているときには歩行者に対して「邪魔だ」などと腹を立て、逆に道を歩いているときには車に対して「歩行者優先だろ、危ないな」などと腹を立ててしまうことがあります。車に乗っていて隣の車線から自分の前に車線変更しそうな車に気付くと、「割り込みさせてやるものか」なんて意地悪な心が顔を出してしまったりします。これらの思いは、私たちが「自分中心・自分最優先」という物事の見方しかできないことから起きます。つまり、自分の思い通りにいかないと腹を立ててしまうわけです。しかし、怒りは苦しみです。怒りが強ければ強いほど、自分で自分の首を絞めることになってしまいます。だが、分かっていても怒りは起きる。そこで大事なのは、怒りを放置せず、怒りが起きてしまっているその心にしっかり気付く(気付こうとする)ことです。「なぜ怒っている?」「それは自分の都合じゃないか?」と心の内側を観察して原因を探っていくと、実に細かいことにとらわれてしまっている(執着(しゅうちゃく))自分が見えてきたりします。このような次々と沸き起こる厄介な怒りに対しては、「相手を思い慈(いつく)しむ」ことが最も良い薬となります。車を運転中に自分の前に車線変更しそうな車がいれば、「割り込み」と思わずに自ら進んで「どうぞ」と譲れば良いのです。そうすれば、お互いにイヤな気持ち(怒り)は起きません。とはいえ、相手がお礼の会釈もしてくれないと「譲ってやったのに失礼だぞ」とまた怒りがやってくる。しかし、それこそが自分中心のエゴです。別の言い方をするなら、自我の暴走です。「自分」という存在が頑なに大きくなればなるほど、苦しみもまた大きくつきまとわり続けます。そこに気付かされ反省と学びを得れば、怒りは感謝へと転じられていくのです。私たちはこの命ある限り「瞋恚(怒り)」という煩悩を滅すことはできませんが、怒りを怒りのままで終わらせない、それが仏様の智慧(ちえ)を頂く生き方(念仏者の仏道)であります。
なもあみだぶつ♪

行事案内

お経を称える会 3/12(月)18:30~20:00
        3/13(火)13:30~15:00

楽しい仏教入門 4/9(月)18:30~20:00 
        4/10(火)13:30~15:00

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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