願海寺新聞 第78号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第78号

発行:2020年4月

こんにちは!新型コロナウイルスの感染拡大によって皆様不安な中でお過ごしのことでありましょう。しっかり予防はしつつ、心身のためには過剰に怯えないほうが良いかと存じます。また、非常時は誤った情報も多く流布されてしまい、買い占めなどの混乱も起きてしまっています。その悲しい様子を見て、詩人の故・相田みつを先生の「うばい合えば足らぬ わけ合えば余る うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ」というお言葉を思い出しました。このような非常時だからこそ、お念仏を申す中で自己中心的な我が身を省み、他者を思い、寄り添い合って歩んでいく慈しみの心を大切にしたいものであります。
合掌 南無阿弥陀仏 弦

~仏説無量寿経 上巻~

大悲を興(おこ)して 衆生を愍(あわ)れみ
慈眼(じげん)を演(の)べ 法眼(ほうげん)を授(さず)く

『歎異抄ってなぁに?~後序編③~』

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。

『歎異抄』後序において著者(唯円さま?!)は、宗祖・親鸞聖人の「何が善で何が悪か、私には全く分からない(意訳)」との御言葉をご述懐されています。
私たちは常に、自分の思考をもって様々なことに対し「善だ」「悪だ」と裁いてばかりいます。ですが、そもそも根深い煩悩を抱えた凡夫の私が思う「善」(正義・正しさ)なんてものは、立場や状況により都合よく変わってしまう実に不確かなものであります。たとえば、人殺しは絶対に「悪」だと誰もが思っているでしょう。しかし、ひとたび戦争になれば、その人殺しが賛美されてしまったりする。動物の命についても、ペット殺処分は「悪」だと叫びながら、喜んで焼き肉を食べていたりする。このように私たち人間の「善・悪」はまことに不完全(不真実)でありますから、宗祖は「そらごとたはごと、まことあることなき」と厳しく受け止めておられます。でも、それは虚無主義(ニヒリズム)といった現実否定ではありません。自己の不真実性への気付きは、私の思いによるものではなく、気付かせしめるという如来の御心のはたらきによるものであります。この私を必ず救わねばならぬという仏様の利他の実践が、私の声(念仏)となって出てきて下さる「南無阿弥陀仏」であり、それが今まさに私を救う仏様そのもでありますから、宗祖は「ただ念仏のみぞまこと」と仰るのです。
不真実である私に気付かされるといいう視座を頂けることは、正しさと正しさがぶつかり合い様々な軋轢の生じている現代社会を生きる上でも、大きな指針となるでしょう。
なもあみだぶつ♪

くいず

阿弥陀如来(阿弥陀仏)は、そのはたらき(性質)を示す別の名でも呼ばれています。
さて、それは次のうちどれでしょう?!

1.大黒天(シバ神)
2.無量寿如来
3.天照大神

□先月の答えは「2.六字名号」でした♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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