願海寺新聞 第12号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第12号

発行:2014年10月

おかげさまで1周年♪

こんにちは。日増しに秋の深まりを感じますね♪秋の切ない空気が好きな巧弦です。“実りの秋”といいますが、その一方で散りゆく落ち葉を見ていると、秋という季節からはたくさんの“生と死”が感じられることに気付かされます。そんな“生と死”によって自分の命は生かせて頂けている事実を考えると、改めて今日という日に感謝して精一杯に生きねばと思う次第です。
さて、お知らせですが、11月3日・4日は願海寺にて『報恩講』をお勤め致しますあ(両日とも10時~)。初めての方も、ご門徒様以外の方も、どうぞ仏さまのみ教えに触れにいらして下さいね!弦

願海寺あれこれ

15世紀の後半から越前(福井)や加賀(石川)を中心に拡大した一向一揆の勢力ですが、ここ越中(富山)においては特定の戦国大名による直接的な強い支配はなかったものの、越中内での権力争いによる戦いはあり、一向一揆もその中にありました。
16世紀後半になると、川中島の戦い(長野)で有名な武田信玄(山梨)と上杉謙信(新潟)をそれぞれ後ろ盾とする武将同士(神保氏・椎名氏)での争いが繰り返されるようになり、上杉謙信自身も1578年に亡くなるまで越中へ何度も攻めてきたようです。
一向一揆は武田方についていましたが、当時の越中の本願寺教団において願海寺は有力な寺となっていたため、大きな勢力を持っていたことが推測できます。そのため、1360年頃から小出にあった願海寺は、1573年に上杉方の武将に焼き払われてしまいます。小出を追われた願海寺(15代目の頃?)は戦火を避けるため(また、勢力を持ち直すため?!)に、塔の峅(立山町)に3年、野積下牧(八尾町)にしばらく(1年ほど?)の間、逃れていたようです。かなりの山奥まで逃げなければならなかったことから、その戦乱の大きさがうかがい知れます。

Q『仏教で救われるのはお寺の人と出家者だけなの?』

仏教というと、なんだか難しそうで、修行を積んだり、専門的な勉強をしている人でないと関われないような印象がありませんか?私にはありました(笑)。
ですが、仏教、特に日本での仏教(総じて大乗(だいじょう)仏教と呼びます)、そして中でも浄土真宗のみ教えは「いっさい修行なんて出来ないような私こそが救って頂ける」道なのです。阿弥陀さまの「必ず救う」とぴう光は、生きとし生けるものすべてに平等に降り注いでいます。ただ、その光に気が付かない、或いは気が付こうともしていないだけなんですね。「別に私は阿弥陀とか信じてないし」という方もおられるでしょう。
ですが、仏のみ教えとは、この世のありのままの姿(真理)を正しく見ましょうというものであり、超能力や超常現象のような力をどうしたとかではないので、「信じる」「信じない」といった次元ではないのです。
仏教では、根本に「生老病死」があるように、「アタリマエ」のことしか説かれていません。なのに私たちはなかなかその「アタリマエ」を見ることが出来ません。
そこで、まずは「なもあみだぶつ」とお念仏をさせて頂くことから、心の中を見つめてみませんか?庭を手入れせずに放置していると、すぐに雑草が埋め尽くしてしまうのと同じように、心も点検を繰り返していないと、すぐに煩悩の芽が出て荒れ果ててしまうのです。もちろん私たちには煩悩を滅し尽くすことは不可能です。私たちは生まれて死ぬまで「あれが欲しい」「あの人が嫌い」といった煩悩の炎の中で生きています。ただ、その煩悩のままに生きるのではなく、「自分は煩悩を抱える身なのである」と自らの愚かさ・至らなさを自覚し懺悔(ざんげ)できてこそ、謙虚な生き方が育まれていくのです。
この気付きこそが阿弥陀さまからの救いであります!
「自分には関係ないや」と思っているアナタにこそ、阿弥陀仏は光を届けようとされているのですよ!
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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