願海寺新聞 第14号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞

願海寺新聞 第14号

発行:2014年12月

こんにちは!いよいよ2014年も残りわずかとなりました。私事ではありますが、12/26で富山県に来て丸2年を迎えます。来た当初は知らない環境で不安ばかりの日々でしたが、皆様に支えられ、育てられ、前向きに歩ませて頂けております。そんな皆様に対して、そして私をここ富山へ導いてくれた深いご縁に対して、感謝の気持ちでいっぱいです。未熟者の私は歩みも遅いですが、み仏の教えに従い、焦らず、怠けず、一歩一歩しっかりと歩みを進めていきます!
では、寒さが厳しくなりますので、体調にお気をつけてどうぞ良いお年をお迎えくださいませ!弦

願海寺あれこれ

伝承では、願海寺13代・巧空(ぎょうくう)が水橋小出から開発村(かいほつむら)に願海寺を移したとされています。小出の願海寺が焼かれたのが1573年、そして塔の峅に3年、野積下牧にしばらく(1年?)いたのち開発村(富山市願海寺)に移ったとありますので、おそらく1578年頃かと推測ができます。
しかし、ここで謎なのが13代・巧空は1543年に亡くなったと伝わっているのです。続く14代・巧唯(了性)も1566年に亡くなっているとあるので、その年代を基に考えるならば開発村に移ったのは15代・唯性(巧昌)であろうとなるのですが…。
しかも、1578年に開発村に移ったとして、1579年頃にはそこも焼かれたようですので、そんな短期間で願海寺村と呼ばれるようになったとは、どうも不自然に思えます。ただ、これらのことは資料が現存しませんので、歴史のロマンと捉えるしかありませんが(笑)。
一つ仮説を立てるとするならば、1530年頃に、小出は願海寺がありながら、13代・巧空がもう一つの拠点として開発村にも願海寺を建立したのではないでしょうか?!それならば、各地に残る伝承と、記録が残る資料との時間的なつじつまは合うのですが…!?

Q『大悲ってそんなに大きな悲しみなの?』

「大悲(だいひ)」という言葉がお経にはよく出てきますが、どういう意味なのでしょうか?
『新・佛教辞典(中村元氏監修)』によりますと、「多くの人々の苦しみを救おうとする仏や菩薩の慈悲(じひ)心」とされています。では、その「慈悲」とはどんな意味??『浄土真宗辞典』によりますと、「慈」は衆生をいつくしんで楽を与えること(与楽(よらく))、「悲」は衆生を憐(あわ)れみいたんで苦を抜くこと(抜苦(ばっく))、とされています。んんん?どうもピンときませんね?(笑)
私たちは人を思いやる気持ちを持っていますが、全ての人に対して平等ではありません。たとえばTVのニュースで「戦争で子供が犠牲になった」と聞くと「かわいそうに」と思いますが、でも、どこか他人事に思っていて自分の家族のことであるようには感じられていないはずです。そのような「自分」「他人」という区別を超えて世の中の全ての人々に平等なおもいやりを持つことが慈悲の「慈」の意味です。
そして、苦しみに同感し、苦しみに寄り添う思いやりの心が慈悲の「悲」の意味です。
すなわち慈悲とは、「人の悲しみを自分の悲しみとして共に悲しむ」そして、「苦しみを分かち合い、苦しみを越えていく」といえるでしょう。
ですが、私たちは人の悲しみに寄り添うときも、どこかで損得を考えてしまっています。そうなんです、煩悩を抱えた私たち人間には究極の慈悲は不可能なのです。けれども、そこを目指して歩んでいく道こそ大切であり、その道を歩む人は「菩薩(ぼさつ)」と呼ばれます。
さて、「大悲」ですが、仏は煩悩を滅されているわけですから究極の慈悲をお持ちなのです。
阿弥陀さまは、その「大悲」で煩悩にもがく私たちを包んでくださっているのです。
そんな阿弥陀さまのお心を喜び、共にお念仏させて頂きましょう!
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞