願海寺新聞 第22号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第22号

発行:2015年8月

こんにちは!いよいよ夏本番です。室内であっても熱中症にはなるようですので、皆様水分補給はこまめにしましょう!
さて、今年は1945年8月15日の終戦から70年となります。「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」とお釈迦さまはおっしゃています(『ダンマパダ』129)。戦争は主に国と国の経済のねじれによって起きますが、その経済の発展からは真の幸せは「心」によってつくりだされるのです。その「心」を育む道が仏教です。私が今を生かせて頂けている先人たちの御恩に報いるため、そして平和な世界の実現のために、お念仏させていただきましょう!弦

願海寺あれこれ

6~7月号では栃津の願海寺に現存する建造物の中から燈籠について書かせて頂きましたが、去る7月13日には毎年7月に行っている栃津の本堂でのおつとめをさせて頂いてきました。私・巧弦は今回で二度目の参加だったのですが、毎年この日に向けては栃津のご門徒の皆様が入念にご準備をしてくださっており、まことに頭の下がる思いでございます。ずっと昔から変わらないであろう雄大な自然の中に数百年の昔から建つ本堂で「おそらく先人たちもこうやってお念仏されていたのだろうな」と想いを馳せながらのおつとめは何ものにも代え難い素晴らしい時間となりました。
おつとめのあとのご門徒様とのお食事会もとても楽しい時間となり、改めてこのお念仏の火を絶やさぬように頑張っていかねばならないと強く思いました。
さて、この栃津でのお参りですが、来年は皆様どうぞふるってご参加ください!来年の日程は、来年5月号にてお知らせできればと思っております(7月中旬の予定です)。
仏さまからのご縁のもとに集う人はみな御同朋・御同行の仲間であります!

Q『仏さまって願い事も叶えてくれるの?』

仏は絶対者や創造主(神)ではありませんから、奇跡のような現象を起こすことはありません。そもそも仏教は「欲望を捨て去ること」が目的ですから、当然その欲望を助長させることになる私たちの願望(いわゆる現世利益(げんせりやく))を叶えるために仏さまがおられるわけではないのです。
お釈迦さまは「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない」とおっしゃっています。まさに私たち人間の持つ根深い欲深さが表されたお言葉でありましょう。
その欲深さから離れられず苦しみ続けている私たち人間を親鸞聖人は「凡夫(ぼんぷ)」と呼ばれました。また、御自身も自らの「凡夫」である様を謙虚に、そして徹底的に厳しく見つめ続けられました。阿弥陀さまは、「あれが欲しい」「あの人が嫌い」などという思いにがんじがらめになってそこから抜け出せずにいる私たち凡夫を我がこととして哀れんでくださっています。
『正信偈』に「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」とあります。
これは、「煩悩の消えない私たち悪人は、ただ南無阿弥陀仏と称えるほかに道はありません。私たちはすでに、阿弥陀仏の救いの光に摂め取られているにもかかわらず、煩悩のために眼が曇ってその救いの光を見ることができません。ですが、私を救うぞという阿弥陀仏のお心は変わることなく、常に我が身を照らしてくださっているのです。」という意味になっています。
阿弥陀さまはこんな私こそを救おうと、ずっと休むことなく声を届けてくれているのですね。すなわち、私が「仏に願っている」のではなくって「仏に願われていた」私なのです。どんなにお金を得ようとも、どんなに健康な身体を得ようとも、苦しみの根っこは断てません。凡夫である私たちが救われていく道は、「われに任せよ必ず救う」というお声である「南無阿弥陀仏」のお念仏のみであるのです。
それは「生かされている命」に気付かされ、感謝の心で今日を精一杯に生きる人生です。
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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