3周年 願海寺新聞 第36号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞

3周年 願海寺新聞 第36号

発行:2016年10月

怒らないことによって怒りにうち勝て
わかち合うことによって物惜しみにうち勝て

こんにちは!いよいよ10月、秋本番ですね!なんとこの『願海寺新聞』も3周年を迎えることができました。これもいつも楽しみに読んで下さる皆様のおかげです!これからも仏教の素晴らしさを伝えていけるよう精進します。さて、ご質問を頂きました。「イラストの横に添えられている言葉は誰が考えてるの?」というものです!そう6月号よりイラストに法語を書かせて頂いておりますが、これは決して私が考えたものではなく、お釈迦さまのお言葉(お経)です!
6月号は『マッジマ・ニカーヤ』、7月号は『阿弥陀経』、8月号は『ダンマパダ』、9月号『勝まん経(しょうまんぎょう)』からです。今月は『ダンマパダ」です。とても心に響くお言葉ですよね♪最後に、11/3と11/4は報恩講法要です。皆様どうぞお参り下さい! 弦

願海寺あれこれ

今月も願海寺に伝わる寺宝をご紹介致します。今月は『御骨墨の御影』です。
1263年、親鸞聖人が御往生の際、願海寺(当時は願海房)2代・清寿は京都の聖人のもとへと行っていたようです。そして、清寿は聖人の孫にあたるため御分骨をたまわったそうです(第5号参照)。その御分骨は、立山町栃津に六角堂と共に現在まで大切に伝わっていますが、御分骨の一部を墨に混ぜて親鸞聖人のお姿を描いたとされるのが、この『御骨墨の御影』です。
正確にいつ描かれたものなのかは現時点では判明しておりませんが、相当古いものであるのは間違いありません。また、そこにはお座りの聖人のお姿が描かれていますが、有名な「安城の御影」や「等身の御影」とは異なっています。どのような経緯で、何を元にして描かれたものなのか、とても興味深いものです。
今後、その辺りも調査をしていければと思っております。

Q『宗教って私には無関係じゃないの?②』

「宗教」が何を問題にしているかといいますと「私の命の問題」です。
私たち人間は生まれてきたからには必ず死ぬわけですが、死んだ経験を持つ人はいませんね。ですから、人類は「死」を見つけたとき(3万7千年前という説があるようです)から「命」について思いを馳せ、そして構築されていったものが私たちの中に無意識に流れている宗教心です。
当初の原始宗教では、まじないなど呪術的なことが重んじられていました。人々は何か目には見えない力(霊など)によって悪い出来事が起こると考えていたからです(現代でもそのように考える人が増えているのは現代人の宗教的知識・情操が退化していると言わざるをえません)。ですが、今から約2500年前にお釈迦さまは「世の中は縁(えん)によって成り立っている」、「全ては諸行無常(しょぎょうむじょう)である」と発見されました。天変地異も、人が亡くなることも、全ては関係性の中で起きたことであって、それは確かに苦しく悲しいけれども自然なことである。そして、その事実をごまかさず、まっすぐ向き合うことによって、この命の尊さ・はかなさを知り、自分の心を見つめた謙虚な人生が育まれていくのであるということです。
ですから、お釈迦さまは「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。(『スッタニパータ』360)」とおっしゃっています。占いは縁起(関係性)の否定であり、迷い・苦しみの原因となるからです。つまり「世の中をあるがままに見よ」ということです。でも人間はあるがままに見たくないのです。だからこそ、「あるがままに見よ」という教えがなお一層強く私たちにはたらきかけてくれるのです。と、仏教の話に片寄ってしまいましたが…、教義のある宗教ならば「死で終わり」とは考えません。たとえ死後の世界なんて信じないという人でも、じゃあ遺体はゴミだと考える人はそういないでしょう。やはりそこかで死後を肯定している。でも、だからこそ私たちはこの生死(しょうじ)の道を歩んでいるわけです。それこそが宗教の力であり役割なのです。すなわち「生と死」がある限り、宗教は私たちと共にあるものなのです。そして宗教をきちんと知ることは生きるヒントの宝庫でもあるのです!
なもあみだぶつ♪

行事案内

願海寺報恩講法要
11/3(祝)10:00~12:00頃
11/4(金)10:00~12:00頃

第8回楽しい仏教入門
12/20(火)13:00~14:30
12/25(日)18:00~19:30

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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