願海寺新聞 第37号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞

願海寺新聞 第37号

発行:2016年11月

人身受け難し 今すでに受く
仏法聴き難し 今すでに聞く

こんにちは!今年も残り2ヶ月となりました。月日の流れは早いものです。思えば小学生の6年間は本当に本当に長く感じたのに、今では6年なんてあっという間で、6年前なんてつい最近のことのようです。あっという間の今日1日、あっという間の1ヶ月、あっという間の1年、あっという間の10年、そしてあっという間の一生なんだなとこのところ痛感しています。私は学びたいこと、成し遂げたいこと、いっぱいあります。ただ、人生は本当にあっという間です。だから、あれもこれもとやりたいことを何でもやってみるのではなくて、それは本当に自分がやりたいこと(やらねばならないこと)なのか、そうではないのかをしっかり見極め、本当にやりたいことだけを選び取り、そうでないことは捨てていくという態度でいないことには、結局フラフラと何も成し遂げられないままこの世での一生を終えていくのでしょう。人の一生は限りあるものであることを教えてくれるのも念仏のありがたさであります。 弦

願海寺あれこれ

今月の御紹介致します願海寺の寺宝は『女人毛髪織り御影』です。なんだか不思議な名称ですが、なんとその名のとおり、八万四千人もの門徒さまの毛髪を集めて織られたものなのです。何が織られているのかといいますと、先月ご紹介を致しました『御骨墨の御影』に描かれていますお姿の絵像なのです。これが作られたのは大正11年(1922年)3月とあり今から94年前ですね。願海寺前住職・巧演が大正13年生まれですので、その2年前になります。
願主は、前住職・巧演(31代)のおじいさんにあたる29代・巧昭(1867~1933)と書かれています。こんな手の込んだものが作られる由来となるような出来事が大正11年にあったかどうかは分かりません。私は、このような髪の毛で織られた親鸞聖人のお姿というものは他では見たことも聞いたこともなく、非常に珍しいものであることは間違いないと思います。(お写真をツイッターに掲載しておきます)。

Q『宗教って私には無関係じゃないの?③』

「宗教に頼るのは弱い人だ」などと言う人がいたりしますが、それは間違いです(キッパリ!)。
私たちは生きている。そしてできるだけ健康に長く生きていたい。ましてや今日死ぬなんて絶対にイヤだ。でも、その思いに反し私はいつか必ず死なねばなりませんし、それは今日かもしれない。そんな「生きたい私」と「必ず死ななければならない私」という矛盾を人間はみな平等に抱えており、この問題がある限り宗教は私から切り離せない関係にあります。
「死ぬのが今日かもしれない」というのは決して脅かそうとしているわけではありません。なぜなら「生」と「死」はいつだって背中合わせの関係です。「生」がなければ「死」もないですし、「生」があれば「死」もあります。逆からみれば「死」がなければ「生」もないということです。この「死」と真剣に向き合う態度がなければ「生」の輝きも浮かび上がってはこないでしょう。「私の命(生死(しょうじ))」についての教えが宗教ですから、無関係どころかまさに「私」の問題なのです。仏教の教えに「四苦八苦(しくはっく)」があります(第5号参照…かなり前ですが残ってますでしょうか?!)。私たちは生まれてきたことについて自分の望みどおりにはできませんでした。いつまでも若いつもりでいたはずなのに気付いたら老いていて、身体も不自由になってきて、死の恐怖も迫ってきた。イヤなことばかり言う嫌いな人とも会わなきゃいけないし、お金も高級車も欲しい物は全く手に入らないし地位も上がらない。大切な人が自分より先に亡くなっていってしまったり、これらの苦しみが生きていると次から次へと襲ってくる…。そんな四苦八苦、心当たりはありませんか?そして、この苦しみは努力で解決できません。人間の能力はそんなに優れてはいません。そんな私だからこそ阿弥陀如来(あみだにょらい)の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の光が私を照らすのです。「安心しなさい。私にまかせなさい。あなたを必ず救う」という願いの中に私たちはみな包まれているのです。その願いが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」となって私にいつもじっと寄り添ってくれています。念仏の教えは頭で理解することではなく、この身でもって実践し実感していくものです。だって、薬も効能を知るだけでは役に立ちませんよね。薬はきちんと服用してこそ薬なのと同じです!
なもあみだぶつ♪

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僧侶似顔絵
村上 巧弦
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