願海寺新聞 第62号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第62号

発行:2018年12月

こんにちは!いたち川沿いの桜の木も紅く色づいた葉がもうほとんど散ってしまい、いよいよ冬が始まることを感じながら、今月もまた〆切りギリギリでこの『願海寺新聞』を執筆しております私・巧弦でございます。まず、おかげ様で今年も11月3日~4日の願海時『報恩講法要』がお勤まりになりました。深く御礼申しあげます。今年は3日に願海寺では初の「音楽法要」を勤修致しました。このお勤めは正式には『宗祖讃迎作法音楽法要』といい、去る親鸞聖人750回大遠忌にあたり作られたもので、原曲では電子ピアノ(オルガン)&雅楽で演奏するように作られていますが、それを願海寺ではエレキギター・ベース・ドラムというバンド編成のアレンジにして演奏してみました。バンド演奏での「音楽法要」というのはもしかすると日本でも初だったかもしれません!?なんせ例のない初の試みなので成功するか不安でしたが、何とか良い雰囲気になったのではないでしょうか?!仏教の「法(み教え)」はどんなに時代・社会が変わっても不安の真理ですが、その伝道の手段と方法は変化していくべきと考えています。伝統を敬い、活かしながらも、現代を生きる私たちに親しみやすい法要や「お寺」のあり方を探求していきたいです。門信徒の皆々と共により良いお寺作りを進めていけたら素晴らしいですね♪  南無阿弥陀仏 合掌 弦

まことに念仏する人白蓮華のようなすばらしい人である

『仏教って神も信仰するの?』

先月号にて、「神々」「諸々の神仏」という表現がありましたが、説明が不十分で誤解を招く恐れがありましたので、今月は「神」について考えさせて頂きましょう。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は『御消息(ごしょうそく)』(お弟子へのお手紙)第二十七通において以下のようにお示しです。『仏法をふかく信ずるひとをば、天地にましますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめしきことなり。」(以上、原文で、以下、現代語訳)
「仏法を深く信じる人を、天地におられるすべての神々は影がその姿に付き添うように離れることなくお護りになるのですから、念仏を信じている人がこのような神々を粗末にしようと思うことなどあるはずもありません。」
このように、念仏の教えに遇(あ)えた私たちは、神々(や諸仏)を粗末にしてはならないとおっしゃっていますが、しかし決して信仰(しんこう)や礼拝(らいはい)の対象とは致しません。
ここで親鸞聖人がおっしゃる「神」は、古来から日本人が持っていた原始宗教的な自然崇拝(しぜんすうはい)やアニミズムに由来するものであり、天皇を神とする現代の神道(しんとう)的な「神」とは異なりますし、またキリスト教やイスラム教など一神教(いっしんきょう)の創造主的「神」でもないことには注意が必要です。(仏教の根幹は「縁起(えんぎ)」の法則ですので、「神が万物を創造した」という考えとはそぐわないのです。)もし、どんな神仏でも全部ひっくるめて信仰OK」とするならば、そんなものはもはや宗教ではない、ごちゃまぜで矛盾だらけのヘンテコなものでしかありません。そもそも、「神仏ならあれもこれも」という思いの根底にあるのは、私たちの「欲(煩悩(ぼんのう)」ではないでしょうか?「欲」に振り回される生き方は、尽きぬ苦しみの世界であることを私たちは深く知らねばならないのです。
この私の「いのち」が健やかに育まれていく唯一の道は、神仏に願い祈ること(お願いします)ではなく、報恩のお念仏(ありがとうございます)を大切にする生き方であります。   なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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