願海寺新聞 第63号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第63号

発行:2019年1月

こんにちは!2019年も何卒宜しくお願い致します!!さて、12月から願海寺2019年行事予定リーフレットをお配りしておりますが、ここでも少しご案内しておきますね。まず、法要は、6/2(日)永代・祠堂経法要、11/3(日)、4(月・祝日)報恩講法要となります。皆様お忙しい中、またお寺まで遠い方もたくさんおられるとは存じますが、お寺の法要は門信徒の皆々様にはできるだけ必ずお参り下さいますようお願い申し上げます。それは、「お寺」というのはご門徒さまのものだからであります。遠くご先祖・ご先人方から大事に受け継がれてきたその重み、ありがたさを感じさせて頂くこと、そして何より「仏法を聞く」ご縁を大切にして頂きたいのです。7/14(日)は、願海寺発祥の地・立山町栃津の本堂にてのおつとめがあります。ここは親鸞聖人御分骨六角堂もあり、浄土真宗としても大変重要な聖地であります。最後にお寺の毎月の行事ですが、1月はお休みとなり、2月からの偶数月は『楽しい仏教入門』、3月からの奇数月はこれまでの『お経を称える会』をブラッシュアップした『お寺を楽しむ会』を行っていきます。『楽しい仏教入門』では、仏教のみ教えを学び、『お寺を楽しむ会』では、お寺の歴史や仏教の文化などに触れながら仏教・お寺の魅力を楽しんでいきましょう!皆さん、まずは気軽に一度お寺に足を運んで下さいね~♪  合掌 弦

今こそみずから生死老病の痛み苦しみから離れるべし この世は醜悪に満ち楽しむべきもの何も無し

『仏事のときってどうしたら良いの?②』

仏間などイス席以外での仏事の際に多くの方が困られるのが「正座(せいざ)が辛い」ことではないでしょうか。
「仏教=正座」というイメージは強いのですが、「正座」は江戸時代に武家社会から民衆に広まる中で仏教にも取り入れられたのではと考えられ、実は仏教と正座の関係の歴史は浅いようです。
仏教において最も大切なことは「私がみ教え(法)を聞かせて頂くこと」です。たとえ起き上がることのできない身体で横になったままの姿勢だったとしても、仏様からの教えを聞きたいという心を仏様はお褒めになるのです。お怒りになるなど決してございません。ですから正座が辛ければ簡易的な椅子などをお使い頂いても、胡坐でも、それこそ寝たままの姿勢であっても全くもって差し支えはありませんから、どうぞ楽な姿勢で仏事にお臨み頂けたらと存じます。
さて、私たちはずっと健康でいたいと思いますが、でも、その願望を叶えるのが宗教ではありません。「生老病死(しょうろうびょうし)」の四苦は思い通りにはできないことが世の道理であり、私という存在は必ず「死」を迎え、この身体は朽ち果ていくのです。しかし、「死」をもってして私たちの「いのち」はどこへ行くのか?死んだら終わりなのでしょうか?それとも、この生死(しょうじ)を超えた真如(しんにょ)(さとり)の世界へと至らせて頂くのでしょうか?(南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))の因果(いんが)の法を聞かせて頂くことによって、そのことをハッキリ知らせて頂くのです。仏教とは私が歩む成仏道なのであります。
そして、私の行いが善いから往生(おうじょう)できるわけではありません。私は善い行いをしてきたつもりであった。今も善い行いをしたいとは思う。だが、「生老病死」という諸行無常(しょぎょうむじょう)の前に私の力は歯が立たず何の役にも立たない厳しい現実を知らせて頂いた。むしろ私が「善い行い」と思い信じ続けてきたことは自我(じが)を肯定(こうてい)する(真理に背く(しんりにそむく))苦(くる)しみの種であったも考えさせて頂くことができた。しかし、そのような煩悩(ぼんのう)に満ち根源的(こんげんてき)な「悪」を抱える私がいるからこそ、阿弥陀如来(あみだにょらい)は「必ず救う我にまかせよ我が名を称えよ」と誓願を起こし、名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」となって私に至り届いて下さったのです。なんとかたじけないことでしょう、なんともったいないことでしょう、なんとありがたいことでしょう。如来からの御恩を喜びお念仏(ねんぶつ)申す人生を歩ませて頂きましょう。  なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞